なんか申し訳ないこと

春一番と卒業証書の立ち位置、効力には共通する部分があるようだ。特に今年はそうだろう。来たる改元もきっとそれらと同じ。寝ている寝てないの関係と平成と令和はおそらくあまり変わらない。つなぎ目は想像以上にぼやけている。冬と春の関係もそれに洩れず。半年くらいあった気がしていた冬は見事に冬のイメージを全て塗り替えて再定義したが。途中、散々文句を言われ疎まれていたようで申し訳ない。いざ終わってみると暖かい日差しのせいでむしろ憂鬱さが増している春。わざとらしすぎてウッてなる。こうなると寒さ、寒いということに身を守られていたような、口を開かなくてもそれが許されていたように思う。冬にしてみれば勝手な話だよ。すまんな。

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晴れた日に傘を持っている人がいる。人の多い電車では何もする気が起きないから目の前に見えるものだけに全ての意識が向く。先日会社に傘を忘れたのか 。家を出る時は雨が降っていたが帰る頃には止んでしまい、置いてきてしまったのか。実は遠方からやってきた人で家の近くでは雨が降っていたのか。たまたま新しい傘を購入した今日まさにその日だったのか。磁気の定期券の人がいる。新幹線定期は磁気しかないからなのか。会社の指定なのか。改札に券を通すという行為を良しとしているのか。「定期は磁気」という型にはまっていただけなのか。路上で号泣する人、全身蛍光の人。前髪を櫛で梳かし続ける人。無気力になると見えてるもの、起こっていることの解像度が上がってくる。おかしいことは実は何もない。あるべくしてあり、起こるべくして起こる。分からないことをおかしいとするのは乱暴だ。だんだんと世界に申し訳なってくる。絶対に見えないから、外向け用の事実をでっち上げることは意外とできるなと感心して嬉しくなった。だが役には立たない。

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偏愛してたくるりの曲、実はそこまで等身大ではなかったことに今更気づいた。ヘヴィーなバスユーザーでもなかったし、マルボロはとっくに辞めてしまったし、少し後悔している四条烏丸から西入ルこともたいしてなかった。曲名で想像される個人的な記憶による補完に頼りすぎていて、過度にドラマチックに仕立てられていた気がする。好きだけどね。それよりも、ブルボンアマレロの文字列、パクチーの香り、コダマスーパーエキスプレスバウンドフォーシンオオサカの方が大事で。数週間の間に意図せず薄っすらとその確かな存在を匂わせ、想起させようとしてくれている。しかしこの間にも各駅停車の発車時刻、新しいハードウェア、スタバとファミマのイントネーション、それらが染み込んできているのが分かる。有益なことしかないのに、そのスピード感がむしろ恐ろしいとさえ思う。まずは桜の名所が、次に行きつけの喫茶店がというように代替はいくらでもきくんだろ。