会社と自宅の間には何があるのか

終電に乗る直前、鍵の音が聞こえていないことに気がついた。そうするとこれはもう鍵を取りに戻るしかない。不本意な残業を終えた後、カフェと蕎麦屋を転々として始発の1時間前あたり、暇がどうにも潰せなくなってしまった。ベンチに座ると見た目が泥酔者ぽいし、それは嫌だ。そもそも酒飲んでないし。そうして散歩を初めてついでと言ってはなんだが家まで歩いて帰ることにした。たぶん8キロくらいの道だ。電車を待つ方が早く家に着くことは初めから知っていた。けれど、家と会社の間がどうなっているのかがすごく知りたかった。僕は定期圏内の駅をあまり見たことがない。特に祐天寺と都立大学は本当に何も知らない。だから東横線の線路をひたすら辿ることにした。こうすると駅は見れる上にグーグルマップは見なくてもいい。中目黒を祐天寺に向かって歩くとさっそく知らない地域に入っていく。旅行に来たような、初めて古着屋に行くような高揚感があった。情報量が多いから初見の土地を歩いて帰ればあまり退屈しない。だからなるべく、知らない景色を見続けるようなルートを意図的に選んで歩いていた。しかし残り1キロくらいのところで、見たことある道に自分がいることに気がついた。知っている場所の端と今いる場所がたまたま繋がった瞬間、どちらのイメージでその景色を見ればいいのか分からなくなる。作っていたパターンの辻褄が合わなかった時のようなむず痒さがある。上書きされそうだが、できれば別のものとして見ていたい。

 

 

東京に住み始めてもうすぐ半年。乱暴な感想だが、東京は市街地と住宅街のグラデーションに乏しい。住宅街には何も無いので市街地に行かねばならないが、市街地に長居はできない。疲れるから。けど住宅街には何も無い。本当はそんなことない、のかもしれない。けれど印象としてこういうことになるのには自転車に乗る機会が減ったことが1つの原因としてあるのではないかと思う。地味に起伏の激しい地形、広い土地、超発達した公共交通機関のせいで自転車に乗る機会は激減してしまった。人が異常に多いことも外出意欲を削いでそれに拍車をかけている。自転車を使わないとき、電車に乗るとき、出発地と目的地の間を見ることはない。駅から駅へとワープしているのだ。だから都立大学と祐天寺のこと、自宅と会社の間の土地のことを何も知らないでいる。

 

 

頭の中に景色としての「東京の地図」が全然できてない。駅を中心として独立した点的な地図があり、その集合が「東京の地図」っぽい何かになっている。渋谷、銀座、六本木の地図はなんとなくあるが、「東京の地図」は無い。自転車を使って生活していた土地の地図はあるが、それらは広小路の地図、二日町の地図の集合、松ヶ崎の地図、四条の地図の集合ではない。確かに「三島の地図」、「京都の地図」なのだ。これは景色としての日本地図を知り得ないというのと同じだ。もちろんこのことは誰しも当たり前なのだが、東京が広いことを加味してもほぼ同じ生活圏というスケールでそれが起きている。

 

 

まだ半年と思うかもしれないが、自転車を今までと同じくらいメインの交通手段とする予定はおそらくない。だからこの先数年住んだところで「東京の地図」が作られることもないだろう。もしかしたら東京にいる他の多くの人間も「東京の地図」を持っていないのではないか。そうだとしたらこの街のことは実は誰もしっかりと把握していないのか。